海外投資のGIA長谷川です^ ^
前回は
・貿易港の獲得と香港ドルの登場
・香港を拡張:戦争と3つの条約
・帝国・英の、罪か遺産か両方か
についてお話ししました。
帝国時代のイギリスが
香港エリアをいかにして作ったか
全体像を把握できましたね。
今回は、
「なぜ香港でデモが行われているのか?」
を理解するための香港の歴史、
『②その時間は何と150年
〜中国人の移住と世代交代〜』
を取り上げます(*´꒳`*)
イギリスによる統治のもと
香港は貿易の拠点として
順調に発展していきます。
「北京条約」に含められた、
清国による清国民の移住公認は、
イギリスにとって目論見通り追い風。
中国本土からは、
出稼ぎにくる方が多く、
潤沢な労働力が集まりました。
特に目覚ましい発展を遂げたのは
1950年代、1970年代です。
▼1910年頃:中環(香港島)
1950年代といえば
第二次世界大戦の終結後。
中国本土では、
1949年の毛沢東による
中華人民共和国が宣言された頃です。
▼1949年:建国宣言を朗読する毛沢東
中国は、清の時代前後、
そして中華民国、中国の成立後も
戦争・内乱・革命の連続です。
毛沢東台頭後も
中国の情勢は不安定で、
朝鮮戦争への参戦、
農業増産を目指した
「大躍進政策」により、
2000万人の餓死者と経済危機。
60、70年
「文化大革命」の時代は、
新しい社会主義の国づくりのもと、
文化的遺物を破壊し、
知識人や政治家を迫害。
40万人もの死者を出します。
毛沢東死去後の80、90年代は、
最高指導者・鄧小平のもと、
経済を立て直すため
市場経済体制へ舵を取ります。
先進国からの資本を受け入れ、
国外からの技術移転も進み、
10%を超える経済成長を遂げますが、
一方で、汚職の拡大、
農村部と都市部の格差、
沿岸部と内陸部の経済格差、
インフレや失業の拡大によって
政府への不満が高まり、
1989年
民主化を求め集結した国民に対し、
軍隊が攻撃し多くの死傷者を出した
「天安門事件」が起きます。
▼天安門
この中国本土の混乱の中、
上海の資本家は香港に逃れ
資本力を生かし紡績業を興します。
そして本土から逃れた
多くの市民はその工業を興す
豊富な労働力として活躍しました。
1842年当初の
イギリスが香港の割譲を受けた時、
地元の人口はほんの数千人。
それが1900年代には、25万人に。
第二次世界対戦後の
1947年末には180万人。
1961年には
300万人を突破。
特に1940、50年代は
中国本土で続く内戦や改革を逃れ
何十万人という難民が流入し、
人口増加の最大の要因になりました。
注目すべきは、
この人口増加の中の
「出生」による割合です。
出生はつまり、
主に中国から移住をした方が
香港で落ち着き香港で出産された、
「香港出身者の誕生」を意味します。
1971年には
香港生まれ世代の人口が
総人口の56%にものぼり、
過半数を超えることになります。
今は2019年。
現在、香港のデモの
中心となっているのは、
香港に暮らす若い世代です。
時代が流れ、
親・祖父母世代の
「香港に逃れた中国人」という肩書きから、
第二世代、第三世代となる
「香港で生まれた香港人」
更にいえば
「中国の混乱の怖さを聞いて育った、
香港で生まれた香港人」
という世代が
香港人口の多くを
占めることになりました。
香港の基本法上、香港は
「中国の中の香港というエリア」
であるとはいえ、
「香港人」にとって、
「中国人」という感覚、
また「中国の制度」を
受け入れられないことは
自然なことのように思います。
これが
香港でデモが起きている
背景の一つです。
海外に投資をするというのは
その国に暮らす方達の土壌に
入らせていただくということですから、
「デモ=香港は○○」
と考えを終わらせるのではなく、
歴史的な背景や問題についても
理解を深めたいと思うばかりです。
次回、
香港に生まれた
「民主」を取り上げます!
どうぞお楽しみに(*´꒳`*)
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※続章はまた後日お楽しみに^ ^
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